白川よう子STORY Vol.6

白川よう子STORY Vol.6

白川よう子STORY06

 「全ての人が幸せに生きるには」この答えは、残念ながら大学時代には見つけることができませんでした。卒業して徳島に帰り、徳島健康生活協同組合に就職。健生病院で働きました。医療現場での経験はショッキングでした。看護師さんが夜中に何度も患者さんの寝がえりをうたせに行っても、診療報酬上は何の収入にもなりません。逆に寝かせきりにして大きな「床ずれ」を作って処置をすれば収入になります。就職した当時は高齢者の医療費は無料の時代でした。自己負担が導入され、その金額がどんどん増えて行きました。社会保障が人の命を守るものではなくなっていく事で、目の前の命を救えない現実に直面する日々でした。

 そんな時に婦長さんたちから「精進料理を食べに行こう」と誘われ、その先で入党を進められました。日本共産党に出会ったことで、私が小さい時から思い悩んできた「全ての人が幸せに生きる」社会を作るには政治を変える必要があるという事や、「大企業とアメリカ言いなり」ここを変えてこそ、そういう社会を作ることができるという答えを見出すことができました。私自身の「本史」が始まったと実感した時でした。

 支部会議や新聞配達といった仕事も増えましたが、その中で人と関わり、新しい仲間や知識を得ることができた日々は、私にとってかけがえのないものとなりました。

善通寺診療所で働く白川氏(左)

 その後、縁あって香川県に嫁ぎ、香川でも医療生協善通寺診療所に勤務しました。地域に密着した診療所での仕事は大きな病院とは違った醍醐味があり、患者さんの「生活背景」が手に取るように見える場所でもありました。たび重なる医療や社会保障の改悪に幾度も涙し、怒りを闘いに変え、「命を守る政治を」と頑張ってきました。折れそうになりながらも、いっしょに闘う仲間を増やしながら前進してきました。

 阪神大震災の前日に娘を授かり、この子たちが大人になる時「お母さんたちはあの時、何をしていたのか?」と問われるような世の中にはできないと、大きな決断をする日が目の前にやって来るのです。

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