白川よう子STORY

白川よう子STORY Vol.1

白川よう子STORY01

 四国の皆さん、私は次期衆議院議員四国ブロック比例代表選挙の予定候補の白川容子です。私は現職(4期13年)の香川県議会議員です。現職県議で、しかも高知県以外の候補者というのも、これまでの四国ブロックの候補者としては全く新たな挑戦となります。不安もありますが、自分自身も大いなる挑戦!全力で頑張りますのでよろしくお願いいたします。

 私は2000年の総選挙では四国比例の2番目の候補者として四国の皆さんにお世話になりました。次期総選挙は2003年以来無くなっている四国の日本共産党の議席を取り戻し、安倍政権の暴走をストップさせる選挙戦となります。山原健二郎さんや春名なおあきさんの思いを受け継ぎ、必ず議席を奪還します。そして先の参議院選挙で生まれた「市民+野党」の共闘を本格的な前進へと進めるためにも頑張り抜く決意です。

参院選統一候補たなべ健一候補と共に

 私は徳島県の出身で、四国で生まれ育ちました。結婚と同時に香川に移りましたが、一貫して医療・福祉の現場で頑張ってきました。医療・介護・社会保障の改悪に次ぐ改悪。目の前の命を救いたいと闘い続けてきました。

 「全ての人が幸せに生きられる社会」をつくることが私の人生の大きな課題です。これまで医療現場でも、地方政治の場でも、こうした「人の幸せ」の根本に政治があることを目の当たりにしてきました。国の悪政を命と暮らしを守る方向へと、しっかりと切り替えていく。愛する四国の声をしっかりと国政へと届けるパイプ役となる。この仕事をやるために県議の職を賭しても闘う覚悟を決めました。

 今後、私の人となりを知っていただけるよう、これまで生きてきた半世紀の歩みを「白川よう子STORY」として連載させて頂きます。つたない文章ですが、どうかお付き合いください。よろしくお願いいたします。

白川よう子STORY Vol.2

白川よう子STORY02

 私は1966年、徳島県の剣山のふもとの町、貞光町(現・つるぎ町)で生まれました。父は大工、母は散髪屋という両親のもと、4つ上の姉と商店街の真ん中で育ちました。当時は小さな田舎町でも商店街には賑わいがあり、隣近所が皆家族、父母の弟子や隣近所の子どもたちが食事やお風呂をともにし、毎日お祭りのような家庭でした。

 私は小さい時から身長が高く、保育所のころから頭一つ飛びぬけていました。そんなこともあって足も速く、小学校の運動会の地域対抗リレーでは必ず一つ上の学年に混ざって走らされていました。おのずと負けん気と正義感の強い子として成長し、弱い者いじめは大嫌い。そんなことを目撃しようものなら、身体の大きな男子とでも取っ組み合いのけんかをするような子どもでした。中学校ではクラスから押されて生徒会に立候補。このころから断れない気質が育まれていたように思います。「これまで通り」というやり方がどうも苦手で、生徒会でも対峙する担当の先生ともかなりの議論をして、変えていったのを覚えています。

姉(右)と一緒に阿波踊り

 郷土が誇る「阿波踊り」大好き少女でしたので、3歳のころから「連」に入りずっと続けてきました。今思えば、小さな町でしたがこうした異年齢の社会の中で大事に育てられ、社会性を培うことができたと、今でも郷里の町に対しての誇りと懐かしさを胸いっぱい感じることができます。

 1998年の参議院選挙で初めて国政に挑戦した時には、「大店法」の議論真っ最中でした。私をあたたかく育んでくれたこうした商店街が、規制緩和で大型店に押され全国的にどんどんその姿がなくなっていくことにどうしても我慢できなかったのも、立候補を決意した理由の一つでした。今も、疲弊していく商店街を何とかしたいという強い思いを持ち続け、私の原点ともいえる四国各地の小さな町の声をしっかりと国政に届けるためにも頑張っていきたいと決意しています。

白川よう子STORY Vol.3

白川よう子STORY03

幼少の頃、仲良しの姉(右)と

 生まれ育った貞光町は自然豊かな町でした。毎日野山を走り回り、春にはレンゲ畑で、夏には清流で、冬は雪の中で自然に育まれました。私は貞光川の清流が大好きでした。夏休みは毎日魚とともに川で泳ぎ、背中は焼けて真っ黒、おなかは真っ白な身体をしていました。山の中に基地をつくって先生からこっぴどく叱られたり、男子と取っ組み合いのけんかをしたりの毎日でした。

 とにかく、チャカチャカした自立心の強い性格で、何でも先頭を行くタイプの子どもでした。苦手だったのは人と「足並みをそろえる」こと。運動会の行進は大の苦手でした。小学校も高学年になると「鼓笛隊」をやらないといけないのですが、歩くのだけでも合わせられないのに、楽器を演奏しながら人と足並みをそろえて行進するなどできるはずもありません。全校生徒の前で「この子だけが合ってない!」と先生から指摘されたことは今でも忘れられません。このころから「人と同じ」という類が苦手だったのかもしれません。

 小学校低学年の時、当時の木造校舎が火事で全焼。校舎の建て替えのため、卒業間近まで公民館などを教室にして、ジプシーのような学校生活を余儀なくされました。そのため、中庭や校庭を作る「勤労奉仕」の時間が多かったように思います。そんな作業の中で、手がドロドロになるような仕事もたくさんやりました。当時大好きだった担任の先生が「手は汚れたら洗えばいい。」と語った当たり前の言葉が、その後の私の人生を大きく左右しています。人が嫌がる仕事も何の苦もなくやれるのも、あまり「偏見」を持たない性格もこんなところから生み出されたのかもしれません。

 中学校は女子剣道部を創設。顧問の先生の協力もあって実現しました。大学生時代、母校の中学校へ教育実習に行かせて頂きましたが、この時の顧問の先生が教頭先生になられていて、ここでも様々な事を教えていただきました。よき恩師との出会いが人生を豊かにしてくれました。

白川よう子STORY Vol.4

白川よう子STORY04

 高校時代は人生の中でも大激動でした。県立脇町高校へ進学したと同時くらいに両親が離婚。家を出た時には制服とカバンくらいしか身の回りの品はありませんでした。貧困状態の中、みかん箱を机にして勉強する毎日。勉強机が欲しくてアルバイトをし、自分の机を持つことができた時の喜びは今も忘れられません。それでも元気に片道1時間もかかる学校に通い、勉強は「数Ⅰ」でつまずきましたが、水泳部で毎日2~3km泳ぐ毎日。みごとなまでの逆三角形の身体になりました。

車いす生活の義兄(左)と

 看護師を目指していた姉が実習先の療養所で知り合った義兄と結婚。義兄は進行性筋ジストロフィーで小さい時から車いす生活でした。いっしょに暮らす中で、たった数センチの敷居も越えられない生活に直面しました。このことをきっかけに様々なボランティア活動などにもかかわるようになりました。たくさんのよき友にも恵まれ、こうした活動にもいっしょに取り組んでくれました。

 小さい時から思い悩んできた「すべての人が幸せに生きられる社会」を作るにはどうしたらいいのか。この疑問を自分の生き方にも重ね、進路を考え続けた日々でした。「社会福祉の道を進みたい」という思いと、家庭の経済的な問題の中で悩み、「働きながら学ぶ」というスタイルの夜間の大学へ進む決意をしました。

 進路を先生に相談した時、「お前、今までよう頑張ってきたなあ。もっと早う相談してくれたら。」と、すぐに奨学金の手続きをしてくれました。当時、母子の児童扶養手当は18歳の誕生日までしか支給が無く、4月生まれの私は高校3年生の1年間が経済的にも非常に厳しく、通学の定期券を買う時なども本当に親に申し訳ないという思いでいっぱいでした。

 今も子どもや女性の貧困や、高すぎる学費などは、とても深刻な問題です。こうした問題の根底に「政治」があり、そこを変えることに自分の人生をかけることができるのも、こうした経験があったからこそだと思います。

白川よう子STORY Vol.5

白川よう子STORY05

 多感な高校時代は、それまでの自分の生い立ちからも「全ての人が幸せに生きるにはどうしたらいいのか」を問い続けました。この答えを見出すために社会福祉を学びたいと、愛知県の日本福祉大学の夜間へ進学。奨学金も借りて働きながら学びました。

学生自治会活動の「新入生歓迎実行委員会」で受験生に声かけ(左から2番目)

 大学はかつての杁中校舎から知多半島の先っぽの美浜キャンパスに移転したばかりで、田舎育ちだった私もびっくりするような、海と山以外何もない町でした。アルバイトも山でのミカンの収穫やブドウの間引き、海苔の養殖やメザシ刺し、旅館や観光業等、都会では決して味わえない貴重な体験をさせてもらいました。夜は大学での講義と、それが終わってから夜遅くまで学生自治会やサークル活動。自治会は「新入生歓迎実行委員会」に所属し、新歓期に新入生が不安なく過ごせるよう、いろんな取り組みを行いました。サークルは「平和学研究会」で平和について勉強したり、「軽音楽同好会」でバンドを組みベースを弾いたりしました。

 たくさんの友人に恵まれ、夜間大学という特別な空間は同じクラスに父母と同じくらいの年齢の同級生がいたり、様々な生い立ちを抱えて入学してくる学友も少なくなく、自らの思いを率直にさらけ出すことができたこの時代は私にとってかけがえのないものでした。

 田舎で交通手段がない事もあり、大好きな250ccのバイクを乗り回し、各地にツーリングにも出掛け、野宿して北海道を一周もしてきました。ツーリング先では、たまたま知り合った一人暮らしのおばあちゃんが美味しい手料理を食べさせてくれるなど、行く先々でたくさんの人と出会いがありました。

 ゼミは「児童養護」を選択しましたが、恩師の村岡末広先生からは「物事の現象はそれだけを見ていたのでは解決の糸口は見えない。背景をしっかり見なさい。特に生活背景。それは時代や政治が生み出しているものでもある。」という事を繰り返し教えられました。今も私の「ものを見る目」の基軸となっています。

白川よう子STORY Vol.6

白川よう子STORY06

 「全ての人が幸せに生きるには」この答えは、残念ながら大学時代には見つけることができませんでした。卒業して徳島に帰り、徳島健康生活協同組合に就職。健生病院で働きました。医療現場での経験はショッキングでした。看護師さんが夜中に何度も患者さんの寝がえりをうたせに行っても、診療報酬上は何の収入にもなりません。逆に寝かせきりにして大きな「床ずれ」を作って処置をすれば収入になります。就職した当時は高齢者の医療費は無料の時代でした。自己負担が導入され、その金額がどんどん増えて行きました。社会保障が人の命を守るものではなくなっていく事で、目の前の命を救えない現実に直面する日々でした。

 そんな時に婦長さんたちから「精進料理を食べに行こう」と誘われ、その先で入党を進められました。日本共産党に出会ったことで、私が小さい時から思い悩んできた「全ての人が幸せに生きる」社会を作るには政治を変える必要があるという事や、「大企業とアメリカ言いなり」ここを変えてこそ、そういう社会を作ることができるという答えを見出すことができました。私自身の「本史」が始まったと実感した時でした。

 支部会議や新聞配達といった仕事も増えましたが、その中で人と関わり、新しい仲間や知識を得ることができた日々は、私にとってかけがえのないものとなりました。

善通寺診療所で働く白川氏(左)

 その後、縁あって香川県に嫁ぎ、香川でも医療生協善通寺診療所に勤務しました。地域に密着した診療所での仕事は大きな病院とは違った醍醐味があり、患者さんの「生活背景」が手に取るように見える場所でもありました。たび重なる医療や社会保障の改悪に幾度も涙し、怒りを闘いに変え、「命を守る政治を」と頑張ってきました。折れそうになりながらも、いっしょに闘う仲間を増やしながら前進してきました。

 阪神大震災の前日に娘を授かり、この子たちが大人になる時「お母さんたちはあの時、何をしていたのか?」と問われるような世の中にはできないと、大きな決断をする日が目の前にやって来るのです。

白川よう子STORY Vol.7

白川よう子STORY07

 「白川さん、参議院選挙に出てくれませんか?」当時の香川県委員長が私のもとに、突然こんな話を持って現れたのは、1998年の参議院選挙に向かう前年でした。四国は96年の総選挙で燃えに燃え、山原・春名の両衆議院議員という夢の2議席を獲得。次の参院選でも大躍進を勝ち取ろうとしていた時期でした。当時は子どもも2才。自分が候補者になんてとても考えられないと断ってはいたものの、今のままの政治でいいのか?自分にできることは?と問い続けた日々でした。当時「日米ガイドライン」が改定される時期で、母親としても「平和を守りたい」という思い、医療従事者として「医療や社会保障がこれほど切り捨てられるのを黙って見ているわけにはいかない」との思いに突き動かされ、参議院選挙に出馬することを決意しました。

1999年(右から)春名、山原衆議院議員と私

 1997年9月に行われた第21回党大会で「行くぞ香川からも国会へ!」と意気高く発言させて頂き、全国的にも大躍進の中で9万票を超える香川県ではかつてない得票を頂きました。2000年の総選挙では香川3区と四国比例の重複立候補。四国比例の定数削減の中で春名衆議院議員を国会へ再び送り出すことができました。01年の参議院選挙に再度挑戦し、3度の国政選挙を闘い、みんなで力を合わせて日本共産党の躍進の流れを作り出しました。

 2000年の総選挙で四国を回った時は、娘を徳島の実家に預けての挑戦でした。母親としては、あの時のことを思い出すと心が痛みます。ある時、娘に「ごめんな、つらい思いさせたなあ。」と話すと、「いやいや、どんな時も楽しんできた。白川よう子の娘で良かった。」と言ってくれ、心の荷が軽くなりました。

 私自身もこの道を歩いてきたことに誇りを感じるし、その生き方が自分自身の幸せのためだけでなく、社会進歩とともに歩んでいることに幸せを感じます。入党を訴える時も情熱をもって訴えています。「自分の生き方と、社会を前へと推し進める生き方が重なり合う人生を共に歩んでほしい」と。

白川よう子STORY Vol.8

白川よう子STORY08

 いつもいっしょに頑張ってくれる存在だった藤目千代子・元県議会議員。本当に優しくてホンワカしたその雰囲気が大好きです。藤目さんは15年くらい前に体調を崩され、次の選挙に出られないことで、急きょ私が高松市に移住をして県議会議員に挑戦することになりました。その選挙で初当選して以来、4期14年目になりますが、連続して県政に送り続けていただいています。

 地方議会で住民要求を実現させる闘いをすれば、必ずと言っていいほど国の悪政との対決につながってきます。「悪政のおおもとを変えたい!」そう思い続けた14年間でもありました。

 県議会で最初に実現したのが、診療所で働いていた時に子どもさんを受診させている保護者の方からいつも出されていた、「子どもの医療費の窓口無料化」をしてほしいという要求でした。県営住宅を全県で3割(2,178戸)も廃止しようとした時も住民のみなさんと力を合わせて運動をおこし、見直しへと追い込むこともできました。35人学級への前進や、特別支援学校の改築・寄宿舎指導員の充実など、要求が実現したその闘いにはいつもいっしょに頑張る仲間がいました。いっしょに頑張る県民の皆さんに励まし続けられた日々でした。

戦争法廃止の行動、樫昭二香川県議団長と

 今回の衆議院への挑戦を悩みに悩んだ時、いっしょに頑張っている樫昭二県議団長に相談しました。団長は「白川さん、やりまい!」と、当面は1議席になってしまう不安をグッとこらえて背中を押してくれました。

 次の総選挙は、県党の総力をあげた闘いで勝ち取った2議席のうちの1議席を辞しての闘いになります。絶対に負けられません。県民要求を四国の要求に広げ、この声を国会に届ける架け橋として、悪政のおおもとを変える宝の議席の奪還へと自分自身も人生をかけた闘いにしていきます。

 「with YOU」の想いで、四国の皆さんとしっかりスクラムを組んで頑張ります。よろしくお願いします!